衆院法務委 学術会議問題で質問
衆院法務委、学術会議問題で質問しました。
戦前の「滝川事件」を丁寧に振り返ると、現在の学術会議問題と幾重にも重なります。
質疑の最後に上川法務大臣が「歴史に学ぶことは未来を考える上で極めて大事」と答弁。
当たり前の答弁ですが、この局面で聞くと違って聞こえます。
- 会議録 -
○ 義家委員長 次に、藤野保史君。
○ 藤野委員 日本共産党の藤野保史です。
大臣は所信で、法の支配という言葉、五回使われております。
先ほど階委員との質疑で大変大事な答弁があったと思うので、確認させていただきたいんですけれども、法の支配の内容について大臣はどのようにお考えなのか、ちょっと確認させてください。
○ 上川国務大臣 法の支配とは、もともと、専断的な国家権力の支配、これは人の支配ということでありますが、これを排斥し、権力を法で拘束することによって国民の権利、自由を擁護することを目的とする原理であるというふうに認識をしております。
現在、この法の支配の内容として重要なものとして、先ほど来四点挙げさせていただきました、憲法の最高法規性の観念、権力によって侵されない個人の人権、法の内容、手続の公正を要求する適正手続、そして権力の恣意的行使をコントロールする裁判所の役割に対する尊重などが考えられているところでございます。
先ほどの御質問は、法の支配が貫徹された社会ということで……(藤野委員「結構です」と呼ぶ)結構ですか、はい。
○ 藤野委員 きょうは、私、日本学術会議の問題を質問したいと思うんです。
というのは、これは単に六名の学者の方の問題ではないし、学術会議だけの問題でもない、まさに国民全体の権利、自由、これに深くかかわる問題だと。今大臣がおっしゃったように、法の支配というものが、まさに国民の権利や自由、これを擁護していく、それを目的とする原理だということでありますから、その所信とも深くかかわると思います。ですから、ぜひ大臣と、国民の権利を守るという点にかかわって議論させていただきたいと思っております。
安全保障関連法に反対する学者の会によりますと、きょうまでに、大学人だけでなく、映画、演劇人、作家、ジャーナリスト、宗教団体、環境保護団体など、千を超える団体が抗議の声を上げております。これはやはり、学問の自由だけでなくて、表現の自由とか信教の自由とか、まさに広範な人権にかかわる重大な問題であるということの反映だと思います。
抗議の声明も多数出されておりまして、私も多く読ませていただいておるんですが、その声明の中に何度も出てくるのが、戦前の京大で起きた滝川事件であります。
文科省にお聞きしますが、滝川事件というのはどういう事件だったんでしょうか。
○ 森政府参考人 いわゆる滝川事件につきましては、文部科学省内に当時の記録が残っているわけではございませんけれども、昭和八年に、京都帝国大学法学部に所属する滝川幸辰教授につきまして、その学説を理由に同教授の著書の発禁処分や休職処分などがなされたものと承知しております。
○ 藤野委員 そうなんですね。それに対して、同じ学部の、法学部の二十名を超える教授が抗議のために辞職する事態になりまして、まさに学問の自由、大学の自治がじゅうりんされた事件であります。
実は、今回の学術会議問題とこの滝川事件というのは、大変よく似ているんですね。まるで、なぞっているかのようであります。
第一に、滝川教授は、当時、政府の政策、例えば治安維持法とかに反対していたこと。第二に、当時の政府が戦争に突き進んでいるもとで、その戦争に対して非協力的だったこと。第三に、当時の法制局によって、当時の政府の行為が正当化されたことであります。
まず、第一の点ですけれども、配付資料の一をごらんいただければと思うんですが、京都帝国大学新聞、一九二八年五月二十一日付で、「治安維持法を緊急勅令によつて改正する必要?」という滝川教授の寄稿なんですね。
ちょっと紹介させていただきますと、治安維持法は悪法である、そのわけは内容が極めて漠然としていて、法律の専門家にとってもどういう行為をすれば治安維持法で罰せられるかということがはっきりわからない、規定の言葉そのものが極めて取りとめがないからである。今の刑法では罪刑法定主義ということが基本観念の一つになっているが、これは何が犯罪であるか、その犯罪に対してどんな刑罰が加えられるかということを、法律の規定で明らかにして、社会人の権利ないし自由を保証するためである。「処が治安維持法はこの点からみて極めて不都合な法律のやうに思はれる、「国体ヲ変革シ」とか」「言葉自体が極めて抽象的で、どの程度の行為がそれに当るか之れは専門家の間でも必ず異論があることゝ思ふ、」
ここからが大事だと思うんですけれども、この規定を解釈し適用する裁判官が、甲であるか、乙であるかにより、恐らくはかなり隔たりがある結果になると思われる。そういう規定は法律殊に刑法としては絶対に避けなければならない、というのはともすれば一般人に何だか裁判が、当局者の政治的方針によって動くような誤解を抱かしめる危険があるからである。こういう指摘なんですね。
大臣にお聞きしたいんですが、この滝川教授というのは刑法学者なんですね。刑法の観点からこうおっしゃっているんですけれども、刑法の大原則、基本観念の一つである罪刑法定主義の観点から、治安維持法についてですけれども、言葉自体が極めて抽象的、不都合だと言っているんですが、この指摘は、私、当然だと思うんですけれども、大臣、どのようにお考えになりますか。
○ 上川国務大臣 今、委員が、滝川幸辰教授の治安維持法に対する考え方について、新聞での、読み上げていただいたわけでございますが、このことについてどう思うかということでありますが、個人の御見解を述べたということでございまして、法務大臣としてお答えすることにつきましては差し控えさせていただきたいと思います。
治安維持法につきましてはさまざまな御意見があるものと承知をしているところでございます。
○ 藤野委員 罪刑法定主義から見て定義が曖昧だという批判は共謀罪のときもありまして、私も法務委員会で質疑に立ったんですけれども、今回任命拒否された学者の中にも同様の指摘をされた方もいらっしゃいます。
同じ資料で、滝川教授は、こうも指摘しているんですね。
下の方ですけれども、幸か不幸か臨時議会は政府と在野党の解散恐怖、解散ですね、解散恐怖のために、停会又は停会でほとんど何の仕事もしないで会期を終わったため、そこに黄色い線が、二段目の中ほどというか、ちょっとのところに引いてありますが、治安維持法の改正も審議未了ということで一応けりがついたと。
ちょっと飛んでいただきますと、「然るに議会が終つて数日たつかたゝぬ間に政府は治安維持法改正を緊急勅令として実現しやうといふのである、」
もうちょっと行っていただいて、議会に提出せられて審議未了となった法律案を議会閉会後直ちに、会期の延長をなし得たにもかかわらず、緊急勅令として出そうという企ては実質的に憲法違反である。またこの態度が議会否認であると言われても恐らくは弁解の余地はなかろうと。
一番最後のところですけれども、四段目のところ、いずれの点から考えても治安維持法を緊急勅令とすることは不純な動機が含まれておるように思われる、不純でないならば不純でないという理由を公表するがよい、それを公表せぬ限り不純なものを不純であると考えるのが普通人の頭であって、それを無理に正常であると考えよという方が無理であると思う。こうやって結んでいるんですね。
実質的に憲法違反、そして議会否認、そして、その背後には不純な動機がある、もしないというなら理由を公表しろ、公表せぬ限り不純なものを不純であると考えるのが普通人の頭であって、それを無理に正常であると考えよという方が無理である。私、この部分を読んで、学術会議の問題に幾重にも重なるなと思ったんです。
大臣、お聞きしますが、滝川事件というのはこういう事件なんですね。こういう人が弾圧された。時の政府の政策に真っ向から反対しているわけですね。この点で、滝川事件と学術会議は似ていると、大臣、思われませんか。
○ 上川国務大臣 今委員がお読みになりましたところから、委員の御見解という形で、またそういった御意見があるものというふうに承知をしておりますが、個人の見解ということでございますので、法務大臣としてのお答えにつきましては差し控えさせていただきたいと存じます。
○ 藤野委員 これだけじゃないんですね。
第二に、滝川教授というのは、当時の政府は戦争にもう突き進んでいるわけです。配付資料の二を見ていただければと思うんですが、その中で、戦争という国策そのもの、何か個々の政策というより、戦争そのものに非協力的だったんですね。配付資料の二は後でまたちょっと触れますけれども、いろいろな事件が起きる中で滝川事件というのが起きていたと。
配付資料の三といいますのは、これは極東国際軍事裁判の速記録であります。一九四六年六月十九日の分で、これは滝川教授自身が証人として出廷した際の速記録であります。
黄色いところを読みますけれども、「私ハ一九二五年(大正十四年)頃ニ始マツタ大学ノ軍事教練ニ反対ヲ表明シマシタ。」「一九三一年(昭和六年)又ハ一九三二年(昭和七年)私ハ満州事変ニ反対スル論文ヲ発表シマシタ。一九三三年(昭和八年)「ヒツトラー」ガ独逸ニ於テ政権ヲ獲得セル際、私ハ「ヒツトラー」ニ反対スル論文ヲ書キマシタ。其ノ時、一九三三年(昭和八年)ニハ日本政府ハ「ヒツトラー」ノ方法ヲ模倣シテ居リマシタ。」
つまり、大臣、滝川教授というのは、軍事教練とか満州事変とかヒトラーとか、そういうものに反対していたわけで、当時戦争を進めようとしていた政府にとってはもう邪魔で仕方なかったと思うんですね。
今、日本を見ますと、安保法制がつくられ、共謀罪法もつくられ、特定秘密保護法がつくられ、今まで専守防衛と言っていらっしゃった皆さんを含めて、敵基地攻撃論まで検討されている。まさに、戦争する国づくりが進められているわけですね。
そのもとで、日本学術会議は、二〇一七年、これは一九五〇年と六七年に続いてですけれども、二〇一七年に軍事研究はしないという声明を出した。これはやっぱり、戦争に協力しないよという学術会議の姿勢というのは、今の政府にとっても邪魔で仕方がないと思うんですね。
大臣、お聞きしますけれども、この点でも滝川事件と似ていると思われませんか。
○ 上川国務大臣 重ねての御質問でございますけれども、こうした個人の考え方、見解につきましては、法務大臣としてお答えをすることにつきまして差し控えさせていただきたいと存じます。
○ 藤野委員 これだけじゃないんですね。もう一つだけ、滝川事件にかかわって非常に似ているのは手続面です。
文科省にお聞きしますが、戦前、京都帝国大学官制第二条二項というのはどのような定めだったでしょうか。
○ 森政府参考人 京都帝国大学官制第二条の第二項というのは、この京都帝国大学の人事に関しての規定がございまして、「総長ハ高等官ノ進退ニ関シテハ文部大臣ニ具状シ判任官ニ関シテハ之ヲ専行ス」と定められておりまして、この高等官の中に教授等が含まれるというものでございます。この具状という語は、一般的には詳しく事情を書いて上申するという意味で用いられているものと承知しております。
○ 藤野委員 そうなんですね。
現在の日本学術会議法も学術会議からの推薦に基づいて総理が任命するとなっているんですが、要するに、政府が単独で決められない仕組み、当時の帝大総長の具状、申し上げるというか、具状があって、それで進退を決めましょうと、高等官、この場合大学教授ですけれども、そういう仕組みになっている。政府が一人で決められないよという点では、戦前と共通しているんですね。
ところが、当時の文部大臣、戦前ですけれども、この京都大学総長、小西総長という方の具状というものがなかったんですね。なかったにもかかわらず勝手にやっちゃった、処分を強行したということで、これが違法じゃないかということで問題になりました。
配付資料四枚目を見ていただきますと、当時の新聞、大阪朝日新聞、一九三三年五月二十五日付ですけれども、要するに、今おっしゃっていただいたように、具状がないということが問題になった。これは法律に反するじゃないかと。勅令ですから、なかなか重い法律なんですけれども、当時は。それが手続を踏んでいないということが問題になって、結局、ここにありますように、法制局が研究するんですね、法制局。それで、「官制違反でないといふに一致し、政府はこの点においては疑義が存しないといつてゐる、」と。
要するに、内閣法制局で検討した、その結果、政府は問題ないと言っていると。これも今回とそっくりであります。しかも、興味深いのは、法制局が当時よって立っていた論理というか論法というか、それまで似ているんです。
配付資料の五を見ていただきますと、これは国会の議事録、珍しく手書きの議事録しかなかったんですけれども、当時、一九三三年五月二十五日の文官高等分限委員会、ここで横溝幹事という方が答弁されている。
黄色く塗っているところなんですが、「大学官制第二条第二項ノ具状ハ単ニ大学総長ニ具状ノ権能ヲ与ヘタルニ過ギズシテ総テノ場合ニ於テ大学総長ノ具状ヲ要スト為スモノニアラズ、」と。つまり、当時の法制局の説明は、必ずしも全ての場合に具状しなくてもいいんだよ、そういう説明なんですね。
翻って現在を見ましても、二〇一八年十一月十三日の文書で法制局の確認をしているというんですが、そこも、必ずしも任命すべき義務があるとまでは言えない、こういう言い方なんです。
だから、法制局が法の支配というか法の定めをねじ曲げて無理筋の解釈をするというときは、必ずしもそれは必要ないとか、そういう論理、論法になってくるというふうに思います。この点でも滝川事件と似ていると思います。
これについてはもう答弁が同じになると思いますので聞きませんが、こういう形で、滝川事件と学術会議というのは、法の支配がねじ曲げられていくと、そのもとで言論弾圧が行われていって、後づけで同じような正当化がされたということであります。
きょう特に取り上げたいのは、より深刻な問題として、この一連の弾圧の動きと国会が決して無関係でなかったということなんです。むしろ、滝川事件でも、後で申し上げますけれども、天皇機関説事件でも、国会議員が事件に先立って質問で取り上げて、政府に罷免を求めるんです。
配付資料の六を見ていただきたいと思うんですけれども、これは宮沢議員という方が一九三三年二月一日に衆議院予算委員会で行った質問であります。
これはちなみに滝川教授が失職する三カ月前でありますが、こう質問しているんですね。「所謂大学ニ於キマス赤化教授ニ対スル罷免ヲ要求シタイノデアリマス、」こう言って、いろいろな方を挙げる中で、黄色く塗っていますけれども、「ソレカラ更ニ某京都大学ノ教授ハ何ト言ッテ居ルカ、」といって、これは滝川教授のことも挙げるわけですね。
そして、私がなるほどと思ったのがこの一番下の段であります。「斯ウ云フ風ナ意見ヲ持ッタ者ガ矢張国家ノ禄ヲ食ンデ、教職ニ就イテ天下ノ青年ヲ指導シテ居ル、」と。国家の禄をはんでいるから政府に盾突くのはけしからぬと。これもまさに、今学術会議をめぐって目の前で展開している論理なんですね。
大臣、こうした言論への攻撃というのは、皮肉なことにというか、当然にというか、言論の府である国会にも影響を与えました。
配付資料の七を見ていただきたいと思うんですけれども、これは前田利定という元逓信大臣、農商務大臣もされた方で、この方が六十五回の貴族院本会議、これは一九三四年ですけれども、二月九日、本会議での答弁であります。先ほどの資料六の宮沢議員の質問は一九三三年で、この前田議員の議事録は、それから一年たった一九三四年に、一年前の国会の様子を当事者が振り返った貴重な証言なんです。こうおっしゃっているんですね。
回顧いたしますれば、昨年、第六十四回帝国議会の当時にありましては、陰雲低迷いたしまして、白日なお暗きの思いがありました。言論は重苦しいところの空気に封ぜられまして、陰惨なる光景を呈しておりました。貴族院と言わず、衆議院と言わず、議員は自由にその言論を吐露することさえも控え目がちに、目には見えませぬけれども、何だか絶大の重圧の力で、どこかからか制肘、抑制せられるような思いがいたされたのであります。昔のよく物の本などには、物のけの出るうし三つ時には屋根の棟が三寸下がるというようなことをもって深夜の光景をば説いておりますが、私どもは昨年の議会当時におきましては、あたかもこの議会の天井が三寸と言わず何メートルか低くなったような気分でおったのであります、こういう証言であります。
言論の府であるはずの国会が、白日なお暗きと、重苦しい空気、絶大の重圧の圧力で異様な雰囲気だったことをリアルに伝えております。
そして、これで終わらないんですね。
翌年の一九三五年二月の帝国議会貴族院本会議では、天皇機関説を唱えていた美濃部達吉、当時貴族院の勅選議員でありました。この美濃部達吉が激しく攻撃をされ、九月にはもう辞任に追い込まれます。翌年、一九三六年二月二十一日には、その美濃部さんが右翼に襲撃、銃撃をされて重傷を負います。その数日後にあの二・二六事件が起きるわけですね。
一九三八年には国家総動員法が成立し、一九四〇年には大政翼賛会が設立されます。日本共産党を除く全ての政党が解散して、大政翼賛会に合流する。一九三三年の滝川事件から、わずか七年です。わずか七年で、日本共産党以外の政党がなくなる。議会を議会たらしめる存在であるはずの政党がみずから解体してしまったんですね。これはこの日本で実際に起きたことなんです。
大臣、お聞きしたいんですが、私、この当時の動きを象徴する方の一人が金森徳次郎という方だと思うんです。大臣、この方、御存じでしょうか。
○ 上川国務大臣 御質問の金森徳次郎氏でございますが、生前に法制局の長官をされた方であると思っております。さらに、戦後、第一次吉田内閣の憲法制定当時の担当の国務大臣を務められた方ということで、国会でも大答弁をされた方というふうに承知しております。
○ 藤野委員 そのとおりであります。大蔵省や大学教授を経て、一九三四年に法制局長官に就任されます。大学教授時代は憲法を教えていらっしゃって、天皇機関説も唱えていたと言われております。そして、この天皇機関説をめぐる審議でも法制局長官として答弁に立たれていた。
配付資料の八がそのときの答弁であります。
ここを読みますと、まず、美濃部博士のとっておられます各種の憲法上の論点につきましては、政府が今までとっておりまする方針と違うところが幾つもあるわけでありますと。違うんだということをはっきり答弁されているんですね。その上で、しかし、それは学問上の見解として、独立の見解として述べておられますので、政府として、その見解それ自体の当否を直接に争う必要もないと考えられます。でありますから、一口に申しますれば、学問固有の範囲において、政府が直ちに所見を披露することは適当ではないように思って差し控えた方がよろしかろうと考えておる次第であります、こういう答弁なんです。
これはよくある答弁だと思うんですね。上川大臣も、きょう、私の質問に対して、繰り返し、個人の見解だからと答弁されました。よくあるんですよ。
ところが、この答弁、要するに、詰められるわけです。この議事録を読みますと、けしからぬと言え、けしからぬと言え、天皇機関説はだめだと言えと。こういう攻撃といいますか、質疑の中で、このラインを、この答弁ラインですね、いや、それは学問固有の範囲だから、政府が直ちに所見を披露することは適切ではない、適当でない、ここをしっかり守って答弁された。これが理由の一つになって、法制局長官を事実上罷免されるわけです。
大臣、お聞きしますけれども、こんな答弁で罷免されるとすれば、同じく国会で答弁に立つ身として、危険だと思われませんか。
○ 上川国務大臣 国会においての発言ということについては、それぞれの発言者が責任を持って発言することであるというふうに思っております。
私も国会の、委員長を始めとして先生方の御質問に対しては、真摯にお答えしてまいりたいと思っているところでございます。
○ 藤野委員 大臣がそういう御答弁をされて、それがいかに、仮に適当だったとしても、それが戦前はそうではなかった、そういう事実があるということなんですね。
先ほどおっしゃったような、その金森氏が戦後、憲法改正担当大臣になるわけです。
配付資料の九をごらんいただきたいと思うんですが、戦後、日本国憲法を国民に普及するために、政府主導で三つの解説書がつくられます。有名なあの「あたらしい憲法のはなし」、兵器が袋に入って、電車とかがわあっと出てくるという、あれが「あたらしい憲法のはなし」ですけれども、それ以外に二つ、「新しい憲法 明るい生活」というものと、新憲法の解釈という三つの本が国民向けに発行されました。
資料の九は新憲法の解釈というものに……(発言する者あり)済みません。解説ですね。これに吉田茂首相と並んで金森徳次郎氏が憲法改正担当大臣、国務大臣として寄せた序文であります。
冒頭に「私は世にも珍らしい幸運者であった。今回の改正憲法の議会審議に当り、百余日に旦って、両院の有力なる議員諸君と共に、論議を交換し、或る時は氷よりも冷かなる態度を以て法理の徹底を計り、或る時は熔鉄よりも熱き心意気に乗って運営の将来を痛論した。」
この世にも珍しい幸運者というのは、単に何か百余日議論できたということじゃないと思いますね。戦前のそうした経験を経て、自分が憲法の改正担当大臣としてそういう立場に立った、世にも珍しい、そういうことだと思います。
その思いというのは、実は当時の議事録からもひしひしと伝わってまいります。配付資料の十をごらんいただきたいんですけれども、これは、金森氏は、それこそ百余日にわたって、いろいろな条文について逐条的に答弁に立たれるわけです。私、読みましたけれども、中でも、学問の自由についての答弁は一味違う。これは、一九四六年七月十六日の帝国憲法改正委員会の議事録ですが、学問の自由を保障する目的とは何かと聞かれて、こういうふうに答弁しております。
「目的ト致シマシテハ、斯様ニ致シマセヌケレバ人類全体ノ行クベキ本来ノ道ヲ誤ルニ至ルト云フコトヲ避ケント欲スル趣旨ヲ眼目トシテ居リマス、」
人類全体の行くべき本来の道。私、ちょっとこれは、何回か読み返しましたけれども、やはりそう書いてあるんです。これは、やはり真実が否定される、事実が否定される、反知性がはびこっていく。その中で、戦争がとめられなかった、戦争に突き進んでいった、人類全体の行くべき道を誤ってしまった、それを二度と繰り返さないために学問の自由を保障する、そういう趣旨だという答弁なんですね。
そして、その後、ちょっとページが変わりますけれども、ここもやはり実情を感じるんです。「従来ノ日本ノ実情ヲ御覧ニナレバ分リマスルヤウニ、又過去ニアリマシタ所ノ多クノ場合ヲ御覧ニナレバ分リマスルヤウニ一ツノ政治的ナル権力ガ、自分達ノ行動ヲ思フヤウニ発展セシメヨウト致シマスルト、各人ガ其ノ心ノ自然ノ伸ビ方トシテ学問ヲ研究致シマスル所ニ、大イナル妨ゲヲ生ズル訳デアリマス、」こういう答弁です。
そして、大臣にお聞きしたいんですけれども、私が感銘を受けたのはこの次のところなんです。近くは我々が多く身近に経験したところであります、したがってこれは憲法に掲げて大いに保障することはひとり当然であるばかりでなく実際的の必要性が多いわけでありますと、ここまで言っているんです。
要するに、憲法の条文として保障するのは当然だ、それだけでなく、実際的の必要が多いわけでありますと。これはやはり自分の経験に基づいてそこまで言ったというふうに私は思うんですね。これは今の学術会議をある意味ほうふつとさせるような、実際の必要であります。
大臣、お聞きしたいんですけれども、戦前、法の番人の一人として法制局長官を務められた方が、まさに天皇機関説をめぐって辞任に追い込まれた。その方が戦後、憲法改正担当大臣になって、学問の自由についてもこれほど熱い答弁をしている。こうした戦前戦後の動きについて、率直にどうお感じになりますか。
○ 上川国務大臣 率直に、今この議事録を拝見させていただきまして、議事録の重要性も改めて認識したところでございますけれども、この金森大臣の立場の中で、こうして憲法そのもの、つまり法の支配の一番真ん中にある憲法、及びそれに関係する基本法、さらには法律を守っていくという、法の支配の一丁目一番地の御議論ということについては、深く今読ませていただいたところでございます。
そもそも、学問の自由に関する規定とか、制定過程につきましては、これは当時の政府の考え方ということでございまして、私は今、法務大臣として、所管ということでございませんので、そのことについては差し控えさせていただきますが、先ほどのような個人的な思いを持った次第でございます。
○ 藤野委員 法の支配の一丁目一番地という御答弁がありました。本当にそうだと思うんですね。
まさに、戦後の政治の出発点、憲法の土台中の土台に、それを答弁した人が、学問の自由をめぐってこうした経緯をたどっていたということは、やはり、権利を守っていくということとの関係で、学問の自由がいかに大事な位置にあるかということを示しているというふうに思います。
最後になりますけれども、抗議声明の中でもう一つ、多く引用されているのが、ナチス・ドイツ時代でルター派の牧師だったマルチン・ニーメラーの詩なんですね。こういう詩です。
ナチスが共産主義者を攻撃したとき、私は声を上げなかった。なぜなら私は共産主義者ではなかったから。社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声を上げなかった。なぜなら私は社会民主主義者ではなかったから。ナチスが労働組合員を攻撃したとき、私は声を上げなかった。なぜなら私は労働組合員ではなかったから。ナチスがユダヤ人たちを連れ去ったとき、私は声を上げなかった。なぜなら私はユダヤ人ではなかったから。そして、ナチスが教会を攻撃したとき、私のために声を上げてくれる人は誰一人残っていなかった。
有名な詩ですけれども。
実は、滝川事件に対して、当時のマスコミとかあるいは学界の反応というのは鈍かったんです。東大を始めほかの大学は沈黙を保って、京大は孤立しました。ところが、弾圧は京大にとどまらず、先ほどの配付資料二にありますけれども、二年後の一九三五年には、東大で天皇機関説事件が起きます。そして、その三年後の一九三八年には、六帝大全部に荒木文部大臣が人事介入を行っていく。そして、大学にとどまらず、先ほど言ったように、国会全体が萎縮していく。そして、滝川事件からわずか七年で、我が党を除く全ての政党が解党して、いわゆる政党政治、ひいては議会政治がやはり崩壊していくわけです。ニーメラーの詩というのは、言葉というのは、日本でもまさに同じ時期に進行していたということであります。
これは決して過去の問題ではありません。イタリア学会というところが抗議の声明を出しているんですけれども、こうおっしゃっているんですね。
「たかが六人が任命されなかっただけで、ガリレオを持ち出すのは大げさであり、学者はそうした政治的な喧噪から離れて研究をしていれば、好いではないかと思う人がいるかもしれない。ましてや一部の学者の話であり、自分たちには何の関係もないと思っているかも知れない。しかし、問題の本質は、時の権力が「何が正しく、何が間違っているかを決めている」点において、ガリレオ裁判と変わりない。」こういう指摘なんです。
大臣、この指摘、どう思われますか。
○ 上川国務大臣 当時の状況についても踏まえながら、委員から御指摘をいただきました。
こうした過去のさまざまな事象についてしっかりと学んでいく、過去に学ぶという、教訓を学ぶということについては、未来を考える上でも極めて大事なことであるということを改めて認識したところでございます。
○ 藤野委員 もう終わりますけれども、やはりこれは本当に国民全体の問題だと思います。
紹介したいのは、女性労働問題研究会というところが十月六日に声明を出しておりますが、「現場で働く女性と研究者が連携し、女性の人権にもとづいた働きやすい社会を作ることを目指してきた当研究会は、さまざまな研究活動を通し、女性労働に対する軽視や蔑視を取り払うことなしに女性の活躍はないことを実証してきました。そうした活動は、先入観を排し、忖度なく実態に即した研究ができる自由と、これをもとに率直に政府に政策提言していける条件の保障なしではありえません。また、そのような研究と提言なしに女性が真に活躍できる政策作りは困難です。」こういう指摘なんです。
これで終わりますけれども、まさに今回の任命拒否問題、国民全体の問題であって、これを強権で押し通すような政治に未来はありません。今ここでとめなければならない。任命拒否の撤回、この一点を強く求めて、質問を終わります。
会議録PDF
20201113_homuiinkai_Fujino_kaigiroku
質疑資料 PDF
20201113_homuiinkai_Fujino_shiryo
しんぶん赤旗 2020年11月15日 2面記事 PDF
作成者 : fujinoyasufumi